アトリエkeiのブログ記事は、全て個人的なよもやま話です。ゆるい雑談でもOKという方だけお付き合いください💓
7月20日からライオンズゲートまで続く「夏土用」。
久々に細胞の中からカルマの記憶を取り出し浄化する流れとなっています。
体内の熱を使って浄化するカルマの記憶は、私の経験ではものすごく深く根深いものであるイメージが強く、以前同じような経験をしたのは2018年の5月あたりだったと思います。
人生で初めて「アイスランド」という不思議な土地を「気楽な女子旅」として訪れた後体験した、不思議で激しいカルマの記憶の浄化。
今回体験した浄化は体のしんどさは2018年の時と比べものにならないくらい楽で終わりそうだけど、私の魂にとっての浄化の規模としては同じくらいの比重はあるのではないかなと思うものでした。
今回の浄化の内容についてはかなりプライベートなことでもあるし、他人も関わってくるので、ここで公表することは多分しないと思うけど、体の細胞からカルマの記憶が消えていくさまってどんな感じなのかをご紹介するために、ちょっとかなり長くなりますが昔書いていた「エキサイトブログ」の記事を、このページでコピペしてまとめておこうかなと思います。
引用元のエキサイトブログのリンクを貼ってもいいのですが、最近エキサイトブログの広告が激しすぎて非常に読みにくいなと個人的に感じているので、読んでいただく方にはノーストレスで読んでいただきたいということでまとめます。
よかったらお楽しみください💖
エキサイトブログ「アトリエkeiのスピリチュアルなシェアノート」から
カテゴリ「自分の記憶」:アイスランドの記憶シリーズ
レイキャビックの報告記事がまだ途中なんだけど、どうもこれを書いてしまわなければ、私の中の「アイスランド」は終わらないようなので、先にこっちを書くことにした。
何というか、これを書いてしまわないと先に進めないみたいな感じというか。
超個人的な話で、読者さんがどこまで興味を持ってくれるものなのかは全く分からないけど、ちょっとダークなファンタジーのような感じで読んでもらえたらなと思う。
「過去世」の話はブログでも時々書いてはいるし、この言葉に興味を持たれる人も多いと思う。
私もスピリチュアルに目覚める前は、もし自分に前世なんかがあるのならそれはどんなだろうとか、今の苦しみは前世の因縁なんじゃないだろうかと思ってみたりして、現実ではどうしようもないように感じていたことの答えをそこが知れたらわかるのではないかと現実逃避のように妄想してみたりした。
ところが、実際に自分の過去世を知ったり、自分で見たりできるようになり、また目に見えない世界の理解が深まっていくと、感じ方が変わってきた。
「過去世は関係ないとは言わないけど、別にわざわざ知らなくてもいい」と思うようになった。
何故なら全ては「現在」と紐づいていて、今この現実をしっかりと生きることで過去を知らずともそこも解決でてしまうし、何よりも「生きる」って今この瞬間のことだと理解できるようになったから。
だから、最近は自分でわざわざ自分の過去世を見にいくことはほぼなくなってしまっていた。
で、今もこの考え方は基本変わっていない。
だけど、だけどなあ。。
本当に不思議なんだけど、この過去世というものが時々自分の中で大きくクローズアップされ、剥がれ落ちていく瞬間が確かにあるのだ。
そしてそのエネルギーの重さ、強さに、自分という存在がどれだけ強く影響を受けていたのかを剥がれていくときに感じてしまうことがある。
先日、アカシックレコードの闇が消えて行くという表現でいろいろと書いたけど、過去世を「アカシャの古いエネルギー」という表現で再認識すると、この不思議な体験の不思議な感覚が少し理解できる感じがしてきている。
今回のアイスランドの件はそんな過去世の不思議を感じる出来事だった。
この旅は始まりは本当に唐突でほぼ「勢い」で始まった旅だった。
友人の口から「アイスランド」という言葉が出なかったら、思いつきもしなかった旅。
でも、振り返ると、この友人の口から「アイスランド」という言葉が出てくる前から、私のアイスランド行はまるで誘導されるがのごとく始まっていたと今は思う。
全ては、帰ってきて1週間後に始まる「高熱体験」の為に私の周りのエネルギーたちが入念に計画し、私がそれを無事終えることができるようにサポートしていたのだ。
そして、何故か私はその個人的な体験をこんなところで書くことで完了すると思っている。
一年ほど前、きっかけはもう忘れてしまったが、何故か映画「ロード・オブ・ザ・リング」を思い出し、原作が読みたくなった。
スピリチュアルというものに開眼する前は、特にファンタジー好きではなかったのだが、見えない世界に開眼すると、ファンタジーというものの中にはその世界のいろいろなヒントのようなものがちりばめられていることに気が付いて、改めて「スピリチュアル」という視点からそういう有名どころを読んでみたくなったのだ。
ところが、その時私はスーパー忙しく、本を読んでいる暇がなく、いつも心のどこかに引っかかりながらも、「読む」まではいかなかった。
秋ごろになって、友人の口から「アイスランド」という言葉が出てきて、なんかその言葉に飛びついてしまい、あれよあれよと「アイスランド旅行」が決まってしまった。
ただ、この時点では次の年の春ごろという時期もざっくりとした感じで、友人の予定もちょっと流動的だったので、なんとなくまだ現実味はなかった。
年が明けて、時間が出来た時、家族の一人が「ホビット」っていう映画が面白いらしいといった。
「ロード・オブ・ザ・リング」のスピンオフ作品のようだったので、借りてみることになった。
私は「ロード・オブ・ザ・リング」の原作本を読みたかったのだが、あれは長いし、図書館で借りなきゃいけないしといろいろと腰が重くなっていて、とりあえず、じゃあその映画でも見るかという気になった。「ロード・オブ・ザ・リング」よりは軽い子供向けの作品のイメージだったので、まあ借りて欲しいというなら借りてみるか~ぐらいの感じだった。
ところが!なんと私はこの作品をレンタル中に2回も見てしまうくらいにハマってしまったのだ。
とにかくいろんなところが、心に響いて、引っかかって、この後、原作者のトールキンのことや作品のことをいろいろとネットで検索してみることにまでなってしまった。
調べていくとそこにはアイスランドと繋がるいろんな要素が出てきた。
トールキンが北欧叙事詩を参考に作品を書いていたようだという事(「アイスランド」はバイキングの国で北欧に入る。よく間違えられるが「アイルランド」とは全く別。「アイルランド」はアングロサクソンの国。)、作品に出てくる「中つ国」の形がアイスランドによく似ていること。映画の中心となる「ドワーフ」という種族が使う「ドワーフ語」はトールキンが「古アイスランド語」を参考に作った言葉だという事。
そして、映画の中でキーとなる権力者を惑わす石「アーケンストーン」がまるでメキシコオパールのようだったこと。
実は私は2年ほど前から「オパール」がものすごく気になっていて、買いやすく気軽に使えそうなタイプのオパールを買っていた。自分がオパール、オパールと言っていたのはここと関係あるのか?と思ってしまった。
そして、子供の時から家にあるすごく好きで今も大切に持っているペンダントで、私がアクセサリーやジュエリーに興味を持つきっかけとなったペンダントが北欧土産だったことや、「ドワーフ」という種族が金属や宝石を加工する技術を持つ職人集団であるという点もなんだか自分とのシンクロのように感じた。
こじつけのようなところもあるけど、決定的だったのは、しみじみと感慨深くこの映画の2回目を見ていた時、ちょうど3部作の最後の作品を見終わった日の夜、友人から「今からKLMのチケット買って!」と連絡が来たことだった。
このタイミングで連絡が来たことは、私のアイスランド行への思いを決定的なものにした。
「これは…アイスランド行は何か運命的なことに違いない」
「それが何か3次元の私にはわからなくても、きっと行くことに物凄く重要な意味があるにちがいない」
そう思った。
たしかに結果、そうなった。
でも、それはこの時の私のワクワクや清々しさとはかけ離れたもので、この時の私には想像もつかないことだったけど。
もし本当のところを知ってしまっていたら、そんな「もし」はありえないんだけど、私はアイスランドに行っただろうか。
ほんとうに不思議だなと思う。
そうして、振り返って、またも天使の采配の凄さを感じてしまうのだった。
次回に続く
旅は、私ににいろんな気づきをくれた。特に「天使」に関することでは得たものは大きかった。
旅行2日前に電撃的に知りアマゾンのお急ぎ便で旅行前日に手に入った天使についての本が、そこに貢献してくれたことは大きかった。
本の言わんとするところを旅行の場面で体験することで、私の中にはいろいろな制約があったことに改めて気づき、そこが取れていくことになった。それは本当に私にとって大きなことだったし、その気づきの大きさはやっぱり私にとっての日常というかある種の「枠」でもある日本という国を出たからこそ得れたものだとも思う。だから、人々が旅の必要性や重要性を熱く語るのには改めて頷く思いだ。
初めてアイスランドの地に降り立った時、アイスランドの大地の神様と精霊たちが歓迎してくれているのは感じたし、クジラさん達の集合意識も歓迎してくれているのは分かった。
ただこの旅を「スピリチュアル」という切り口でだけ見ると、そこで感じたのはせいぜいそれくらいで、最初期待したような自分の何かを大きく動かすようなスピリチュアル的な気づきはほぼなかった。
でも、まあこの辺りは前にも書いたけど、行く前に想像はできた。
なぜならこういうことは、その土地に実際に肉体を持って降り立つってことが重要で、上の次元で何が起こっているかなんていうのを知ることは稀だから。
求められることがあるとするならば、それはその地で送る時間を心から楽しむことや、その土地で経験できることをしっかりと感じることだけだと言っていいと思う。
何か気が付くべきことがあるのなら、きっとそれはいつか最高最善のタイミングで何かが起こるし、その時に気が付けばいいのだ。だからスピリチュアル的にどうのという前に、この女子旅は本当に面白かったし、びっくり体験も多かったし、心から行けてよかったなと思っている。
まあそんな感じで帰国してからこの話は始まる。
帰国して1週間後のある日、時差ボケも何とか治り、日常が戻り、ゴールデンウィークも後半に入るその日、私は「今日は特別な日だ」と思う不思議なシンクロを体験していた。
その日は、ヒーラーの友人二人にアイスランドのお土産を渡す予定で、私は外出していた。向かっていたのは神戸。
朝から少し自分が熱っぽいことに気が付いて、電車に乗ってますます「ヤバいな」と感じて少しその日の外出を後悔しだしていたその時だった。
乗り換えの為に電車を降りて、別の鉄道に乗り換えるために改札を出る時に、自分のすぐ前に改札を出た人をまじまじと見た。
改札で目の前に現れたのは黒人の青年だった。手足が長く顔が小さく、陸上の長距離選手みたいな感じの人で黒人の人が持っている独特のリズムで目の前を歩いている。
赤や黄色が混じったスポーツウェアのようなぴったり目の服にカラフルな陸上用のスニーカーのような靴。
ちょっと奇妙な感じがしたのは、彼が背負っているリュックだった。背中にぴったりくっつくようなそのリュックはものすごく細く小さいのだ。服や靴と同じようにカラフルだけど、2リットルのペットボトルくらいの大きさで普通のリュックに比べるとものすごくコンパクトだ。
スポーツ用品としては普通なのかもしれないけど、見慣れない私には奇妙に見えた。
私の乗っていた線と同じ線に乗っていたから今この改札を通っているのだと思うと、こんな田舎も結構国際化が進んでるな~と思いながら、ふとアムステルダムで会ったモデルのように美しい黒人の青年を思い出した。
アイスランドから出国しアムスで1泊してから帰国予定だった私と友人が、夜のアムスでトラムを乗り間違え、ホテルまでの道を迷い始めた時、ものすごいタイミングでものすごくスマートな助け舟を出してくれた人がいた。
背がモデルさんのように高くて、顔が小さくて手足が長くて、こんなにきれいな顔の人いるんだねってくらい男前の黒人の青年だった。
彼は本当に親切で、そしてその親切さはびっくりするくらいカラッとしていて、でもきめ細やかで、それでいてこちらにお礼も言わせないくらいのスピードで流れるように去って行く姿はまるで本物の天使みたいだった。
私は「これは、ちょっともしかしたら間違っているかも…」とトラムで不安を感じ始めた時から、心の中で真剣に天使に祈っていたので、彼の登場はまさに「ミカエル」だと思った。大天使ミカエルをその肉体に宿すのは当然だと思えるくらい彼の目は綺麗だったし、身のこなしも着ているものも、姿かたちも美しかった。
「あの時のアムスの人の方が男前だな」なんて失礼なことを思いながらその思い出をまた思い出しているうちに、目の前の青年のことは頭から消えていき、彼の姿も見えなくなった。
次の鉄道のホームに上がった時、いつも並ぶ場所が妙に混んでいたので、いつもは乗らない一つ後ろの車両の方に移動した。柱を越えたその向こうに、先ほど見た黒人の青年がスマホを見ながら並んでいた。
「あれ?あの人だ。」
なんだか不思議だなと思ったものの、電車に乗り込むと離れた場所になったので、またそのまま忘れてしまった。
神戸に着くころには、気が付かないふりをしたかったけど、確実に私は熱を出していた。
友人とはその日、神戸の山側であるイベントをチラ見して、そこから神戸の友人のお家にデパ地下のお弁当を持ってお邪魔する予定になっていたのだけど、ウロウロできないと思った私は、友人二人に散策に行ってもらい、その間私はカフェで休んで待つことにした。友人がお家に戻る頃に私もそちらに向かうということになった。
カフェで待っていると、お家に向かうと連絡が入ったので、私も向かうことにした。一瞬トイレに行ってからにしようかな?と思ったのだが、お弁当を持っていたのでそれを持ってトイレに行くのも面倒で、そのまますぐに向かうことにした。
「あ~、しまった。。完全に熱あるな。今晩たぶん大変だな。。でも会う場所が友人のお家でよかったよ。外のレストランとかだったらちょっとしんどかったな。。」なんて思いながら、友人のマンションがある通りに入るために右に曲がった時だった。
私は自分の目を疑った。そして固まった。
もし、カフェでトイレに行っていたら、このタイミングは逃していただろう。
その通りは山に向かて緩やかに上り坂になっている。その上り坂の上から、なんとあのカラフルな黒人の青年が降りてくるのだ。スマホで電話しながら。
「え!?え?!」と思っているうちに彼は私の横を通り過ぎて行った。振り返ると降りていく青年の姿が見えて確かにあの奇妙なリュックが見えた。
もちろん全くこっちは見ない。彼からすると私はいないかのようなそんな感じだ。
でもそれとは全く真逆に、私は「見られている」と思った。しかも強烈に見られている。
だって、こんな偶然はありえない。というかこれは偶然なんかではない。私はこういうやり方を知っている。
今日は何かあるんだ。それをミカエルは伝えてきている。
自分たちが近くにいること。見守っていること。それを私に知らせている。そう思った。
「今日は何か特別な日なんだ。だからアムスの天使を思い出させるあの青年は目の前に3度も現れるし、今日はヒーラーで天使の話ができるあの友人二人に会うんだ。そしてだから私は今日の予定をやめなかったんだ。」
それはいったい何なのか、そんなことはやっぱりわからなかったけど、友人二人に知らせる面白いネタができた~と熱も忘れて能天気に私は友人のお家に向かうのだった。
つづく
友人の家に着き、アイスランドのお土産を渡すなどした後、私は早速ここにたどり着くまでにあった不思議なシンクロ・「カラフルな黒人青年」の話を始めた。
そしてその青年がなぜそんなに自分にとって時別な意味を持つのかを説明するために、アムステルダムで道に迷った時のことを話し始めた時だった。
ここから奇妙なことが起こり始める。
話していると、体か少しづつ震え始めた。
話ながら自分の体が震え始めたのを感じて、「あれ?私、どうしたんだろう、、熱が上がり始めたのかな?」と思った。
そのうち、声まで震え始めた。
震え始めの時は友人にも見て見ぬふりをしてもらおう位に軽く考えていたのだが、だんだんと満足に話せなくなってきた。
友人の家の4人掛けのダイニングテーブルが私の震えによって、まるで大きな地震が来る前の小さな地震のように「ガガガ」と揺れだした。
私はここでもう話し続けることができなくなってしまい、「…すいません、なんか私、震えてる…」とだけ言って椅子に座ったままの姿勢で身を硬く縮め両腕で自分の体を抱くような姿勢になってしまった。
この時私は寒かった。ものすごく、ものすごく寒かった。
熱のせいであるのは間違いなかったけど、何だか変だった。何だか奇妙だった。タイミングとか、今日のこととか、いろんなことが。
もはや話すことが出来なくなった私の様子を見て、ヒーラーである二人の友人は即座に体に掛けるものを用意してくれ、隣に座っている友人の方は私の背中をさすって声をかけてくれた。
もう一人の家の主である友人は「良かったら飲んで」と塩の入ったおさ湯を用意してくれた。
私はとてもおさ湯に手は出せなかったけど、そのおさ湯を不思議な感じで見ていた。
何というか、ただじっとその澄んだ色のおさ湯を見ていた。
震えは全く止まらない。
すると不意に家の主の友人が私の向かい側で両手を「パン!!パン!!」と打った。
その時だった。私の肩と頭の後ろから何かのエネルギーがその澄んだ音に慄くかのように後ろにギュイーーンと下がる感覚があった。ギュイーーンと下がったエネルギーは一旦下がったがまるでゴムのようにまた私の元に戻ってきたのがわかった。
何かが憑いていた。
そしてそれはお払いの拍手では到底取れない何か強烈なものだと瞬間的にわかった。
手を打った友人はその後すぐさま私の左横に来て何かを唱え始めた。「カタカムナかな」と思ったけどそれを確認することさえもできない。
どれくらい時間が経っていたのかはわからない。ただかなりの時間そのままガガガと体は震え続けた。
震えは止まらず、私は自分の体の芯から、例えようのない、またこれまでの人生で経験したことのないほどの寒さを体験していた。
その寒さは私を圧倒していく。
絶望的な寒さ。
寒い。寒い。寒い。。圧倒的な寒さ、絶望的な寒さ。。
「寒い。。寒い。。」いつの間にか私は声に出していた。でも声に出すとそれはなんだか自分のものではないような感じがした。確かに自分が感じていることを声に出しているのに、誰かの声を代弁しているかのような感じだった。
すると何かをずっと唱えていた友人が私の頭の上で「しんどかったね。もういいよ。もう一人で抱え込まなくてもいいよ。あなたは自由です。」と言った。
その言葉が上から私の体にしみていき、腹の底からこんな声が上がってきた。
「……苦しい……苦しい…」
苦しい
この言葉が上がってきた後、私の体は少しづつ震えから解放されていった。だんだんと落ち着いてきて、体が温まってきた。
「もう大丈夫です、、びっくりした。。」やっと話せるようになって私は言った。
用意してもらっていたおさ湯を飲むとそのお湯が体にしみわたって心が温かくなった。
右隣でずっと体をさすってくれていた友人は「何だったんだろうね」と言った。
「うん、、。あのね。ずっと赤毛の女の人が見えてたんです。」と私は言った。
友人が手を打った時、ギュイーーンと何かが頭と肩から離れて行ってまた戻ってきた時、2つのビジョンが見えた。
一つは形があいまいな「怨霊」と言ってもいいものだった。
もう一つは「赤毛の女性」だった。
腰の上まである赤毛の髪の背の高い女性だった。赤毛は細かくウエーブしていた。くるぶしまであるスカートは何か分厚い毛糸のような革のような茶色の動物の何かの素材で出来ているようで、白いエプロンのようなものをしていて後ろ向きにすっくと立っていて、顔だけが振り向くようにして後ろを見ていた。
後ろを見ているその眼は青い目をしていて、その青い目が私をしっかりと見ていた。
立ち姿には何か凛としたものがあって、顔は知的で冷静だった。もう一つのビジョンの怨霊のように激しい怒りや怨念などは全く感じない。
ただ目が何かを語っていた。
その眼は私を捉えて離さなかった。でもこの時の私にはこの目が何を語っているのかはわからなかった。
その人は洞窟の中にいた。氷の洞窟の中に。
人は生まれる前に様々なプログラムをその人生に仕込んで生まれてくる。
それはその時の自分の決断によって様々な選択ができるように「オプションA・B・C…」と幾通りも準備されているようだが、どの道を選んだとしてもその人生で辿り着きたい最終ゴールは同じところなのだと、だいぶ前に大天使ミカエルに教えてもらったことがる。
そしてそのたくさん用意したプログラムの中で、ゴールに到達するために特に重要な意味を持つものがいくつかあって、それが作動する時には、特別なサポートが入ると感じている。
今回のことはそういったものに近かったのではと思う。
そしてそういったプログラムが作動する時には、必ずロックを解除するための「アクセスキー」のようなものがあり、それを提示された時、意識の中のロックが解除されプログラムは作動しはじめるのだ。
だけどこの「アクセスキー」は提示されている時にはそれだとは全く気が付かない。ある程度全てが終わった時に初めて「あ~、あれかぁ…」と気が付くのだ。
今回の私の場合のアクセスキーはこの日の前日だった。
つづく。
アイスランドを旅行先に選ぶ醍醐味はやっぱり日本とはまた違う現地の自然を体感できるところだと思う。
今回の私たちの旅は「気ままな女子旅・初心者タイプ」だったので、そこをチラッとだけ覗く感じだったと思う。
それでも「夏」バージョンの自然のスケールの大きさはしっかり体験できたし、その他もろもろの体験はかけがえのないものとなった。
だけど、帰ってきて、何かちょっとやり残したような感じがあって、私はそれを今回の旅で見れていないものが沢山あるからかなと思っていた。
例えば、オーロラを見るとか、氷河を見るとか、アイスランドの有名な野鳥を見るとか、いろいろ。
SNSにアイスランドの写真を上げると、アイスランドをテーマに写真をアップしている人から沢山「いいね」が付く。
そういう人のページに行くと私たちが見れきれなかったアイスランドの風景をたくさん見ることができた。
その中に、アイスランド人で日本語を使って現地の観光ガイドをしている人がいた。
何気なく彼のページに行くと、そこには私たちが見れなかった冬のアイスランドの写真が沢山アップされていた。写真には日本語でも説明があって、ついその写真をつらつらと眺めていた。友人の家に行く前日の夜だった。
動画もあった。冬のアイスランドで吹雪の中、エスキモーみたいな恰好で強い雪風に吹かれてどこか荒涼としたところに立っているガイドのその人と日本人の観光客の姿を見た時に、私は笑ってしまった。
「あ~~~、こりゃ、絶対だめだ。絶対、私は冬のアイスランドには行けないわ。こんなに寒かったら、この冷え性の私は死んじゃうかもしれん^^;」と。
私たちが滞在したその期間は時期にしては奇跡的に晴れも多くあったかかったが、それでも実際にあの土地に立ったことで、冬の厳しさはなんとなくではあるが想像できるようにはなっていた。
「オーロラには憧れるけど、凍えるような寒い思いを乗り越えてまでは、、ちょっともう今となっては考えられんな、、」なんて思いながらも、その人のアップしている動画をいくつか見れば十分なはずなのに何故か丁寧に一つずつ見ていた。
「もう、眠いな、目もしょぼしょぼしてきた」そう思ったのに、ただ見続けた。
その中に今振り返るとちょっと特別な動画があった。
それが氷の洞窟に入っていく動画だった。
その人がスマホのカメラを使って洞窟の入口から入っていって氷の壁なんかを説明しながら写していた。
この時の動画を見ている時だけ、私は無反応だった。他の写真や動画では「綺麗だな」とか「寒そう、、私には無理」とかいろいろ脳がおしゃべりしていたのに、この動画を見ている時は、何故か見ているようで見ていないというか、頭がずーーっと静かだった。
「あ、ダメだ!なにぼーーーっとしてんだ。。もう寝ないと。。」と私はハッとして動画を止めて、スマホを切った。
「あれがスイッチだったと思う」と私は次の日震えが止まった時に、友人二人に言った。
「それからその後、寝た時に実に奇妙な夢を見たんです。。」と私はつづけた。
その夢は「閉じ込められる」夢だった。
暗く重々しい古い屋敷の、厳めしい黒光りする天井まである家具がひしめく1室に、何故か私は一人でその晩を過ごさなくてはいけなかった。
一緒にいた人が屋敷を出て行ったあと、その灯りのない暗い灰色の部屋に入ると、そのとたん四方の壁がまるで折り紙のように折りたたまれて自分に迫ってきた。私のいる場所はどんどん狭くなり、圧倒的な灰色と黒の空間が迫ってくる夢だった。「ヤバい!電気をつけないと!」と必死で電気のスイッチを探し、スイッチをパチンとしたときに目が覚めた。心臓がバクバクしていた。
「幽霊さんの夢じゃないな。。でもパラレルワールドとも違う…」と思った。今まで経験したことのない夢だった。でも明らかに波動は重く低く、「やばい」感じだった。
その夢の話をすると「それって、圧倒的な絶望だよね」と目の前に座っていた家の主の友人が言った。
それを聞いて「は!」とした。
そうだ、「絶望」。。。そう、「絶望」。。どうしようもない「絶望」が形になったもの。それがあの夢だと思った。
右に座っていた友人が、「え?え?それってどういう事??keiちゃんの過去世がアイスランドのシャーマンだった時のことと関係してるの?」と私に聞いた。
私は「うーーーん。。。たぶん。。」と言った。
先にも書いたが、私は自分の過去世をもう自分で見に行くってことはほとんどしなくなっている。
で、アイスランドについてもそこに行くってことは何かあるんだろうなとは思っていたが、わざわざそれを見に行くことはなかったんだが、今、私が見えない世界に意識を開いていくための土台となったレッスンを伝えるというのを始めていて、帰ってきてすぐにあったレッスンのテーマが「過去世を見る」というものだったということがあり、自分以外の人の過去世を見る練習として、生徒さん2人に「私とアイスランドの関係を見てきてください」とお願いしてみたということがあった。
その時に、二人の生徒さんともが「シャーマン」だった私のイメージを捉えていた。
そして、この時の一人の生徒さんが言っていた言葉がとても印象に残っていた。
私が、今回の旅はなぜスピリチュアルの要素が薄かったのかを知りたいとその生徒さんにいうと、過去世を見た生徒さんは、「どうも人間としてそこに行くのが重要だったみたい」と言った。
それを聞いて「あ~……なるほどな」と思った。
もう一人の生徒さんは、自然の光や風や木の葉やそんなものがぶわ~と出てくるイメージを捉えていた。そこにはポジティブなエネルギーに満ちていたらしいのだが、何故か私の姿がどうしても見えなかったらしいのだ。
この二人の話を聞いて、私は自分がシャーマンとして生きていた時は「人」を捨てていたんじゃないかなと思っていた。
だから、今回は「人」としてその場所に行くことが大切だったのかと思ったのだったけど、改めて自分の過去世とこの日の体験を照らし合わせると、もう少し深い何かがそこには隠れているような気がした。
「私は、今のは何か集団の意識のような気がするの。人柱的なもので、一人じゃない。」
そう向かいに座っていた友人が言った。
振るえる私の頭の上でこの友人が「しんどかったね。もういいよ。もう一人で抱え込まなくていいよ。あなたは自由です。」と言った時、確かに何かがおさまった。何かが友人二人に看取られるかのように解放された。
それは私のシャーマンであった時の、そして同じようにシャーマンだった誰かの重荷を解放するものだったのかもしれなかった。
こういう時の不思議が解決する時は、パズルのピースが一気に埋まっていくときのように、全てが収まるところに収まっていくもの。
でも、この時はいろいろな要素がまだ私の中でバラバラだった。
「人として生きなかったシャーマンとしての人生」
「集団の意識」
「圧倒的な絶望」
「人柱」
そして、「赤毛の女性」
一番気になったのは、赤毛の女性のイメージが震えが止まったにもかかわらず、まだ変わらずそこにあったことだ。
確かにそこにあって、まさに上の写真のような洞窟にすっくと後ろ向きに立っていて、振り向く形で私を見ていた。
その表情も目も全く変わらずに。
そして私はこの時、ふと思い出した。この人と、スピリチュアルに目覚め、自分でリーディングができるようになった時、何故か会ったことがあるってことに。
もういつだったかは忘れたが、何かを意識の目で見ようとしたときに洞窟のような所の入口に私はいて、洞窟の陰から、赤毛の白人の女の人が出てきた。目は青かった。
その時のその人の目は何か嬉しそうにも感じた。何かを期待しているような。訴えかけるような。私を知っているような。でもその人と言葉を交わした記憶はない。
友人と話しながらもぼんやりとそのことを思い出したりはしたが、この日は、いろいろと引っかかることがあるものの、たぶん自分がシャーマンだった時、自分なのか他人なのか、それとも両方なのか、もっと大きな意味の集団的なものだったのか、とにかく何もかも捨てて、人のためか、信念のためか、もしくは名誉の為かに命を投げ出した、そんな魂を解放したのかもしれないということになんとなく自分の中で落ち着かせた。それ以外は分からなかったから。
でも、後から話を聞くと、この時私の右隣にいた友人は「本当のところ」を感じ取っていたそうだ。
でもこの時、それはその人の中で「なかったこと」にしてしまって私には伝えられなかった。
友人は何故なかったことにしてしまったのかわからなかったみたいだけど、今の私にはわかる。
なぜなら、それは私が自分で気が付かなければいけなかったから。
それがこの事件で私に求められた最も大切なことだったから。
赤毛の女性が求めていたこと、それは私が自分で気づくことだった。
彼女の目が語っていたのは「あなたは知っている」だったのだ。
つづく
家に帰ると、案の定大変だった。
とりあえず、転がるように布団に入ったが、一晩中熱でうなされ、布団の上でのたくっていた。
次の日もGWの後半の休みで病院には行けず(例え行けたとしても、しんどすぎて行かなかったとは思うけど)、熱と格闘して3日が過ぎた。
私の予定ではこういう感じの熱は2日ほど寝込んだら峠を越し治る予定だった。ところが一向に峠を越した感はやってこない。
「…やっぱ、憑いてるやつのせいかな、、」とも思ったが、「いや、でもあんな感じの震えはこないし、、一応あれはあれで神戸で何かの区切りはついているはずだし…」とも思った。
アイスランドでシャーマンとして生きた魂。
シャーマンとして生きるということは「人」を捨てることであったのかもしれなくて、場合によっては人柱的に命をささげることもあったのかもしれない。自分の定められた運命を生まれた時から刷り込まれ納得して、時には名誉にも感じて、でも、その運命ゆえに命の根底にある様々な「人」として望むすべてのことに蓋をすることは、本当はもだえ苦しむほどの葛藤があったのかもしれなく、そんな苦しみを抱えた魂のカケラを拾って解放した。。。?
あの赤毛の女性が私をいつも見ているのは、あの人は私の前世だからか?あの人がシャーマンだった時の私?
でも、やっぱり何かがしっくりこなかった。
例の赤毛の女性の映像は相変わらずそこにあったし、頭の中でアイスランドで滞在していたアパートでBGM代わりにつけていたテレビの音楽ビデオのチャンネルで流れていたヒットチャート上位の曲がエンドレスで鳴っていた。
すごく耳に残る「ノンノンノーンノ、ノンノンノーンノ、」というフレーズで、それがものすごくストレスだった。
ヒットチャートの曲には他にも特徴的な曲がいくつかあったから、何とか思い出して別の曲に無理やり変えようとしても、この「ノンノンノーンノ、ノンノンノーンノ、」が邪魔して思い出せず、どうしてもこれを鳴りやますことはできなかった。
正直、この時はもうアイスランドは勘弁してほしかった。
起きていても、「スーハ―、スーハ―」と呼吸に集中しないとしんどさの方に意識が行くし、寝たら寝たで、もう寝すぎで頭の床との接点の部分がガンガンして寝るのも苦痛だった。
夜になると熱が上がるので、夜が来ると「もうかんべんして…。。。」となっていた。
私はとにかく熟睡する必要があると思った。少しの間でいいからしっかり眠ることができたら回復するはずと思った。
そこで市販の頭痛薬を飲むことにした。
熱が出そうな気配がしたり、ちょっと熱が出てくると、大抵頭痛がするので、その気配を感じたら私は頭痛薬を飲むことがある。
薬の中に眠気を誘う成分も入っているのか、飲んで少しするといい感じで眠くなり、「スコー」と寝てしまい、次の日にはケロッとしていることが多い。
だから、この時もとにかく、後頭部のずきずきを感じなくなって「スコー」と眠れることを期待したのだ。
ところが、この日はそうはいかなかった。いつもは10分ぐらい経つと頭痛が治まっていい感じで体の力が抜け眠くなるのに、全然眠くならないのだ。
「え~~~、、、マジで…??。。」大分布団の中で悶々として、もしかしたらこのまま薬が効かずに終わってしまうんじゃないかと思いかけた時だ。
突然自分の内側の全ての音が消えた。
頭の中で鳴っていたあのフレーズも鳴りやんだ。ものすごく静かになった。
「薬が効いてきたのかな…」と思った後、力が抜けた体がそのまま眠りに入っていった。
多分、時間にしたらそんなに長くはなかったと思う。30分か長くて1時間か。私は突然「バチ!!」と目が覚めた。
目が覚めたとたん「薬が切れた!!!!」とわかった。そしてその後だった。これまでで、一番きつい時間がやってきた。
あの神戸の友人の家で体験したもっと強烈なのが始まったのだ。
「うううううう、、寒い、、、寒い、、、寒い、、」体がガガガガと震え続けて、私はまたあの絶望的な寒さの中にいた。
そして怨霊のようなビジョンと氷の洞窟の中ですっくと後ろ向きに立つ赤毛の女性のビジョンを見ていた。女性はやっぱり私を見ている。
「ダメだ、やっぱり取れてなかった。やっぱりまだここにいる…」そう思ったけど、熱にうなされ寒さに震えている私は何もできなかった。
部屋で一人でうわ言を言いながら震えていると、不意に母が入ってきた。
「どうしたの、大丈夫??」とさすがに母が私に声をかけてきた。
私は「寒い所から人が来るの」と言っていた。
母は私が最近いろいろなことがわかるということは知っている。その言葉を聞くと私の背中側に回り、私の頭に手を当てた。そうして、こう言った。
「私の娘から離れなさい」
この言葉を聞いたとき、私の心の中が温かくなった。そして母の存在が私を強くした。
私は「そうだ!」と思った。
どんなことがあろうと、この体の持ち主は「私」なんだ。だれも私の体をどうにかすることなんてできない。
この体は私のものなんだ!そう思って、私も心の中で「私の体から離れろ!!この体は私のものだ!!」と強く強く言った。
すると、不思議なビジョンが見えた。
丸く浅い大き目の籠のようなものが見えて、その中に双子の赤ちゃんがすやすや寝ている。赤ちゃんはどちらも男の子だ。
そしてその籠の側で、あの赤毛の女性が本当に幸せそうに微笑んでその籠を覗いているのだ。傍には姿は見えないけど旦那さんの気配もした。
そのイメージがぶわ~~~っと上がってきて消えていき、光に包まれた。
そして、私の震えが少しづつ治まっていった。
「ありがとう、もう大丈夫。」と母に言うと、右の後頭部に手を当ててくれていた母は「あんたのここ、なんかすごかったよ。手がビリビリして痛かった」と言って部屋を出ていった。
一旦部屋を出た母がまた戻ってきた。「こんなのがあった。貼ってみる?」と渡してくれたのは、おでこに貼る熱を冷ましてくれるシートだった。
震えは治まったが、熱はまだ高くて、とにかく休みたかったので、そのシートを貼ってみた。
母が部屋を出て行ったあと、布団では後頭部がガンガンするので体を起こして休めるように小さなソファーに移動して肘置きに背中を持たれかけさせ、ソファーの上で体育座りのような姿勢になって、ただぼんやりしていた。
少しだけ、体が楽になった。
赤毛の女性は上がってくれたかな?と思った。そう思った途端、怨霊は見えなかったけど、やっぱり氷の洞窟に立つ彼女の姿は見えた。
ダメか、、、とため息がでた。
体育座りがきつくなったので足をひじ掛けの上に乗せ、何もない向こう側でぶらぶらさせながら、ふとこう思った。
「あ~あ、なんか、私、約束したんかな。。迎えに行くって、約束したんかな。」
そう思ったとたん、ぶわ~~~~~っと全てのことが繋がった。
これまでの全てのことが。
これまで謎だった全てのことが。
「そうだ!そうだったんだ!私が約束したんだ!迎えに行くって。いつか必ず迎えに行くって!」
だって、閉じ込めたのは私だったから。
彼女たちをあそこに閉じ込めたのは「私」だったのだから!!
自分の中の真実につながった時、それまでは「点」で存在していたあらゆるものが、一気に繋がることがある。
それはまるで目の前のベールが取れるような感覚で見ていた景色がクリアになり、「知る」ということが自分にもたらす浄化のパワーに圧倒される。
自分の部屋で、たった一つ、とてもシンプルな記憶を取り戻した時、私はそういう状態になった。
全てが繋がったのだ。
私は自分が閉じ込められたのだと思っていた。
でも実際は反対だったのだ。
閉じ込めたのは、「私」の方だった。
なぜそんなことをしたのか、どういう理由があったのか、そんなことはもはやわからないけど、私は自分が行ったその事実をずっと何世代にもわたって負ってきたのだった。
そしてそれは、私が魂的に大切なものを得た時に初めて、閉じ込めた「彼ら」の魂を迎えにいくことができ、事実を思い出した時に解消されるものだったのだ。
最終的に、私はアイスランドでのシャーマンとしての過去世を3つ知ることとなった。
一つ目は生徒さんが見てくれた「自然と光と喜びに満ちているけど人の姿は見えなかった」という人生。
二つ目はこれも生徒さんが見てくれた「男の人のシャーマン」という人生。
そして3つ目は全てがわかった後に、自分で見に行った時に見えた「キリスト教がアイスランドに入ってきた頃に生きていた、シャーマンとしてはまだ未熟な女性」の人生。
はじめ、私はこの大変な過ちを犯した自分は3つ目のまだ少女といってもいいくらいの女性のシャーマンかと思った。
この子はまだシャーマンとしては未熟だった上に、その頃アイスランドに入ってきた新しい考え方・キリスト教にも心が傾いていたようだった。
「だからシャーマンとして判断を間違えたんだろうか」と思ったが、少し時間を置くと、そうではないということがわかってきた。
人が決定的な過ちを犯す時には様々な要因があると思うが、その中でも「未熟さ」故の判断の誤りよりももっとエネルギー的に重いものがあると思う。
それが、「傲慢さ」や「力の過信」などエゴによる過ちだ。
私がシャーマンとして最も力を誇っていた時、自分の能力や経験にこれっぽっちの疑いも持っていなかった時にこの過ちが行われた。それが二つ目の男の人だった時のシャーマンだった。
この私の過去世を見てくれた生徒さんとは、実は神戸の事件で私の右隣にいた友人だった。この過去世にアクセスした彼女だからこそ、あの時点で私の今回の「ホントのところ」に気が付いていた。
でも、私は過去世を見てもらった時もそれを深く掘り下げようとはしなかったし、彼女も真実に気が付いたのに私に伝えなかったというのは、全てがわかって振り返っても不思議なものだと思う。
自然は私たちとはまた違った次元の考え方を持っていると思う。
自然を人間の方に近づけることは難しい。自然の声というものを私たちの人間の頭で理解できると思うことにも無理がある。
ただ、頭では理解できなくても、歩み寄りを可能にする視点が一つだけあって、それが「愛」というものなのかなとも思う。人が生きる上では人の方が自然の方に寄り添う必要があり、そこを学んだりもう一度取り戻そうとしているのが「今」という時代だと思う。
初期のころのシャーマンとしての私は常に自然と共にあったのだろう。それは今のように改めて考えたり学んだりすることではなく、ただ自然とそうであったんだろう。だからその時代を見てくれた生徒さんの表現では「自然と光と喜びに満ちているけど人の姿は見えなかった」となったんだろうと思う。
2つ目の「男の人のシャーマン」というのを生徒さんの口からきいたとき、黒い背景に立つ男性が一瞬見えた。この時それは深く考えなかったが、この人物がやってしまったことが今回のことに繋がったんだと思う。彼からすると自分の判断に微塵の迷いもなかったのではないか。
それは「自然」というものに対してか、またはそれに近い「神」というものに対して行われたものだったのだろうけど、人とは違う次元でものを見ている「自然」や「神」が彼がイメージしたような、そんな要求をすることはあり得ないことだ。
もし、それが「自然」や「神」が要求したことだと感じたのだとしたら、それこそ人の都合に自然を無理やり当てはめようとした先に出てきたものではないかと思う。でも、そのおかしさに気が付かないほどこの時の人は自分の力を信じていたんだろう。
3つ目のちょっと頼りないシャーマン見習いの少女は、自分の過去世が犯した罪を知っていた。
そして自分が閉じ込めた魂を解放するために吹雪の中洞窟に向かうが、その場所で「魂の解放」というものがそう簡単に行われるものではないと知り結局は果たせずにその帰りに絶望の中、吹雪く雪の中で凍えながら息を引き取った。洞窟に沢山の魂を残したまま、彼女は天に上がっていき、そこから一人「人」としての転生の道に入ることになる。「生きる」ということを学ぶために。
私が今回、アイスランド人としてではなく、またシャーマンとしてではなく、敢えてスピリチュアルな視点を封印してその地に入ったのには、この3つ目の経験があったからだと思っている。
それくらい魂的に強烈な記憶で、全ての記憶を持ってその地に入った時の衝撃は計り知れないものだったのだと思う。だからこそ全ての工程で様々なサポートが入ったのだ。
冬のアイスランドの動画を見て「寒すぎて死んじゃう」と思ったのも偶然じゃなかったのだ。
この世に「偶然」というものはないのだな。
「偶然」とは、起こっていることの中に必然性を見いだせなかったとき、そこに存在する大きな捉えきれない意図に気がつけない場合に仕方なく使う言葉。
そんなことをしみじみと思ってしまうくらい、いろんなことが次々と当てはまっていくのだった。
つづく
神戸の友人の家で起こったことは、当初考えていたような何かを浄化したというものではなかったと思う。
(ただこの考えはあくまでも「私」という人間が主人公である「私の現実」でのこと。だから別の角度から見ればこれは浄化ともいえるのかもしれない。この世はパラレルだから。)
あの時何が起こったのか。
私は「パンドラの箱を開けた」のだと思っている。
中に入っていたのは長い間私の記憶の奥深くに封印されていた「オリオン」のエネルギーの影響を受けた記憶だ。
旅行でアイスランドの地に入った時、私は自分が置き去りにした魂たちを引き受けた。
「どこで?」と聞かれたら、思いつくところは一つしかない。私の勘違いで友人二人を全く目的地ではない小さな町に連れて行ってしまったことがあった。
本当になんであんな何にもない所に、友人二人に恐怖のS字カーブを通らせてまで行っちゃったのか、謎だったけど、私たちが町の中心に出たとき、目の前にあった教会の鐘が物凄いタイミングで高々と「カーン・カーン・カーン」となった時に私は「あ~これは偶然じゃない」と思った。三次元の私にはよくわからんけど、今日はここに来る必要があったんだって。
まさか自分のこんな個人的記憶のためだったなんて。でもここでも神戸の友人とは別の二人にサポートされてたんだな。。
そして神戸の日の前日に「氷の洞窟の動画」というアクセスキーによって記憶の封印を解き、次の日、エネルギー上では大天使のサポートを受けつつ現実では二人のヒーラーの友人に両側で支えられ、私はついに箱を開け、出てきたかつての記憶と対峙することになった。
「自分が閉じ込めた魂たちの解放」
かつて同じことを私はアイスランドの未熟ではあるが純粋なシャーマン見習いとしてやろうとしたが、彼女にはできなかった。
なぜなら、彼女には「魂の解放」の本当のところが理解できていなかったから。「魂の解放」とは、決して呪術的なことのみで行えるようなことではなかった。
その魂たちの思いに寄り添うこと。その思いを自分の中にも「知っている」と持てた時、初めて魂に寄り添うことができ、魂は癒されていく。
そしてその癒しは決して一方的なことではなく、相手が癒されるのと同時に自分の中の同じものが癒される。お互いに「わかるよ、その気持ち」となった時初めて起こること、それが「魂の解放」というものだったのだ。
アイスランドの地に置き去りにされた魂は、私が成長するのをその地で待っていた。
私が彼らの気持ちに寄り添えるようになるまでずっと。
私が自分の部屋で、全てを思い出した時、初めてあの後ろ向きに立っていた赤毛の女性が体ごと振り返った。
振り返った彼女は笑顔だった。そして、彼女の分厚いスカートの陰には、双子の男の子達がいて、年齢の割に背の高いその子たちが嬉しそうに走り出てきた。
彼女の後ろには形にならない魂の美しい光がいくつも見えた。
「わかって欲しかった。
私たちの中には納得したものもいたし、そうでなかったものもいた。
私たちはただ、大切なものとの時間を慈しみながら生きたかった。
人として幸せに暮らしたかった。それをあなたに知って欲しかった。」
彼女からそんなメッセージが届いた。
私はいつの間にかこう答えていた。
「やっと、人になれたんです。」
私にずっと何かを訴えかけていた彼女の目はとても優しくなっていた。穏やかで何かを納得して見届けたような、そんな表情にも見てとれた。
彼女の向こう側に広がる分厚い氷の壁が、いつの間にか分厚く巨大いな灰色の雲の塊になっていて、その真ん中は縦にぱっくりと割れ、向こう側から光が漏れていて、雲の割れ目を優しく照らしていた。「天国の光だ」と思った。
天界への道が開かれた。
「今晩、私たちはあなたから離れる」そういって、その夜、彼女たちは離れていった。外では浄化の雨が降っていた。
その夜、横になると、熱を出し始めてからずっと頭の中で鳴っていた、あの「ノンノンノーンノ」というフレーズが鳴りやんだ。そして初めてあのアイスランドのアパートで聞いていた別の曲に切り替わった。
私は笑ってしまった。
だっていつも答えは頭の中で鳴っていたのに気づかないなんて。
「ノンノンノーンノ」って「ちがうちがうちがうーよ」みたいなかんじやんか。
「私は閉じ込められたのか?」「ちがうちがうちがうーよ」
「赤毛の人は私の前世?」「ちがうちがうちがうーよ」
ずっと「ちがうよ」って頭の中でなっていたんだ。
「赤毛の女性」
この人は私にとって特別な存在だったのだと今は感じている。
なんというか、「他人」という感じではないのだ。それはもう一人の「自分」のような感じだ。
でも前世でもないし、いわゆるそっくりさん的な感じでは全くなく、その正反対。
私の持っていないものを全て持っている私とは真反対のもう一人の「私」。
魂が丸い球体で、その中にたくさんのあらゆる美しい要素が入っているとして、その要素たちは一つとして同じものはないとする。
彼女と私は、その魂という球体からそれぞれ要素を選び、こちらに出てきてそれぞれ別の「人」になった。
だから彼女は私が持っていない要素を全て持っている私にとって特別な存在。私が追い求めるものを全て持っている人。
だから私は子供のころから彼女のようなイメージを持つ人を、あこがれの人のように感じてしまうところがあったのかもしれない。
アイスランドに行く前に見た映画「ホビット」で最も印象に残った登場人物も「赤毛のエルフの女性」だった。
背が高くて背筋をピンとした姿は凛としていて強くて美しかった。顔は「美人」ではないのかもしれないけど、生きるエネルギーと真っすぐな思考が目をキラキラさせていた。
今思うとあのキャラクターのイメージは彼女によく似ている。
自分の考えをしっかり持っている女性。そのしっかりした考えや自信が現れている外見の美しさ。
圧倒的な「陽」の力。どんな人にも愛される「陽」の魅力。
そういう人を見るといつも「こんなふうだったらよかったのに」と思った。何度も何度もそういう人を見るたびにそう思った。そしてふと自分を見ると自分はどうしても地味でジメジメした感じに思えた。とても弱く頼りなく思えた。だから強くなりたかった。憧れる彼女達みたいに。
でも結局は「陰」と「陽」は同じことだったのだ。それは同じものの違う側面だっただけ。
目の前のあこがれを見るのではなく、自分の中を見ればそのことはちゃんと分かったのに。
今やっとそこに気が付けるようになった。自分のことをちゃんと正面から見れるようになったのだ。
私は自分の半身である彼女を洞窟に隠して、隠したものが何なのかを探す旅に出た。そして彼女はその私の旅を隠されることで支えた。
このやり取りは「自分同士」だったからこそできた。そんな気がするのです。
私はアイスランドに旅行に行く前、映画「ホビット」を見た後、この旅行は「オリオンの解放」に関わるものなのかもしれないと思った。
映画に夢中になり、原作者を調べていたりしていた時、たまたまテレビ画面にプラネタリウムの天井が映ったことがあった。
空にきらめく星々に、そのままではどれが何の星座かわからないからと星の上に星座の絵が重ねられた。オリオン座にも絵が重ねられたのだが、その絵は映画ホビットで私が感情移入した、まさに「ドワーフ」そっくりだった。
「オリオン」と「ドワーフ」そして「アイスランド」
不思議なシンクロだった。
私のアイスランドでのこととオリオンを関係づけることは、さすがにこじつけかなと思ってこの話のスタート(こちら)ではここは書かなかったのに、節目の「⑤」を投稿した次の日に、オリオンが去っていくことになるなんて夢にも思わなかった。
映画「ホビット」の3部作で、号泣してしまったところがある。胸の奥を掴まれえぐられるようで、涙が止まらなかった。
それは「第2部」のエンディングの曲だった。エンディングが流れ出すと目が離せなくなり、歌詞にくぎ付けになった。
歌詞がとても悲しかった。音も、とてもとても切なかった。
この歌は、歌詞の「炎」の部分を「雪」や「氷」に変えると、そのまま私と私が閉じ込めたアイスランドの地の魂の歌になるような気がするし、「炎」のままだと、全ての人間の負の歴史を歌っているようにも感じる。
「どうか私のことを覚えていてほしい」
どんな命もいつかは終わりを迎え忘れられていく。でも確かにそこにいたんだという記憶のバトンをどんな形であれ誰かに渡すことができた時、魂は安らぐように感じている。
「幸せとは何?」「愛とは何?」
それを知るために「オリオン」のエネルギーは様々なものをもたらした。
「オリオン」のエネルギーの元、散っていった魂たちも、今度こそ安らぐ時が来ていると思っている。みんなの記憶にちゃんとその足跡を残して。
たくさんの記憶に感謝して、この思いを終わりにしたいと思う。
おわり。
追記:
長い間お付き合いありがとうございました。
私の中で、これを書くことがとても重要でした。夏至の前に終えることができて、良かったです。
この話には後日談があります。
私は、この時の男のシャーマンにイメージで会いに行ったことがあり、そしてその人に直接なぜあんなことをしたのか?と聞いてみました。
するとその男性は私の目をまっすぐ見て、「私がこれをやったから、あなたは今そこにいる」と言ったのです。
その時私は、全てを理解しました。
彼がその役目を全うしたから、私は今それをしないで済んでいる。
だから私の目の前には今あらゆる可能性が開いているのだということを。
オリオンの魂に課せられた役目と悲しみ、そして決して認めてはもらえないその行いの影に息づく愛を身をもって知った瞬間でした。
こんな経験があるからこそ、オリオンの解放が自分の魂が最も求めるものであり、どんな形であってもそれをやっていくのだという思いが今あるのだと思っています。
長いのにも関わらず、最後まで読んでくださってありがとうございました💖
皆様にとって、良い「夏土用」の期間になりますように✨
コメント